『儚い人生』に思うこと
人生は「はかないもの」なのだろうか、あるは、そうではないのだろうか。この問いも、先に触れた「大切に思うことは、人それぞれに違うのだろうか」ということと同じ次元の問題である。
人生を「はかない」と思う人にとっては「はかない」ものであり、そう思わない人にとっては「はかないものではない」ということなのだろうか。
人生を謳歌している者にとっては、人生を「はかない」と考えることは難しく、臨終の床へ就こうとする者は、自らの人生は「はかないものだった」と思うのではないだろうか。
その場合、どちらが正しいのだろうか。
そのことについて、ブッダは自らの80年の生涯を通して「人生は、はかないものである。だから一瞬の間も惜しんで修行に励むのだ」と言ったのは事実だ。
人生を謳歌している者にとって「明日が訪れない」ことを考えるのは難しいが、もうすぐ「死」が訪れようとている者に「<明日が訪れる」見込みはない。
清らかな心をもって、他人のものを盗まずに、人を助けて、善行を積むために残された時間に、かぎりがあるのは事実だ。
そのことを「どう考えて、行動するかしないか」は、人それぞれだと思うが、私にとっての「人生」は、やはり「はかないもの」だと思えてならない。
私は、保険のことに関しては、ある程度詳しいが、それ以外のことでは、むしろ、知らないことのほうが多い。
私が、他の代理店や営業マンのように高額な販売手数料やインセンティブの賞金欲しさに心を奪われたならば、保険のことを知らないで損をしている加入者の利益を守ろうとは思わなかっただろうし、そのための「ノウハウ」を思いつくこともなかっただろうし、そのための「計算システム」を作って自費を投じて特許を取ろうとも思わなかったにちがいない。
今の私の考えは「ブッダの教え」を自分なりに理解したからに他ならない。そのことを考えると、これは、私にとって、果たさなければならない使命なのかもしれない。
本文を通じて「生命保険の活用方法」を述べたのは「生命保険」のあるべき姿ではなく、生命保険を提案する者の「あるべき姿」を述べたことに他ならない。
そのことが、正しく理解されるかどうかは、私の問題ではなく「人生は、はかないものである」ことを理解するかどうかを含めて、その人本人の問題である。